世界の天皇(スメラミコト)

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  私が学生の頃、ある中学生が「皇居なんて早くなくしてしまって一般の人が住めるように住宅をそこに建設したらいい」と言いました。どうしてそういうことを言うのか聞いてみると「学校で先生が言っていた」との返事でした。現在はますますイデオロギーからくる歴史抹殺の動きが学者、教員の間でひどくなっており、日本の国体さえ危うい状況になりつつあります。
戦後の史学会では、天皇家の万世一系は絵空事として切り捨てているし、神武天皇は存在しなかった、その後の応神天皇までの十五代にわたる天皇まで存在しなかったという考えが主流になっており、十五代までの天皇の存在を認める発言をすると大変な圧力があり研究も出来ないと聞いています。
すでに教科書では「仁徳天皇稜」とは出てきません。大仙古墳になってしまっています。鎌倉幕府や江戸幕府にしても、天皇から「征夷大将軍」の位を賜って始めて幕府として認められるわけですが、それさえ変えて実効支配した年代に書き換えようとした動きが始まっています。天皇の権威を歴史家から消そうとしているのではないでしょうか。教科書においても今こそ心ある先生方が正しいことを伝えていかないと永久に抹殺されかねない状況であり、皇室の存続すら危うくなる危機感さえも感じております。
天皇がどういう存在かを知らない人も意外と多いようですので、今回少し触れてみたいと思います。
 これは世界の常識ですが、天皇は世界で最も権威のある存在です。
例えばカナダ政府発表の「外交上の社交序列」 (http:// www.pch.gc.ca/pgm/ceem-cced/prtcl/address4- eng.cfm)をインターネットで見てみるとわかりますが、最高の権威がただ一人、天皇Akihito、次に各国(国によって細かく分かれています)の王、王妃、皇太子、共和国大統領、アメリカ大統領、各国首相-------。と続きます。
挨拶から会話の言葉遣いまで細かく規定されています。例えば、各国の王に対しては「Your Majesty/ Sire」と最高の挨拶言葉を使いますが、世界でただ一人、天皇陛下のみに対しては「Your dignified Majes-ty」と更に敬意を示すことになっています。エリザベス女王であっても、天皇陛下と同席するときは上座を譲ります。アメリカの場合も、大統領は晩餐会には、最高儀礼のホワイトタイで出席します。(ホワイトタイの他に、昭和天皇の訪米時には、空港、ホワイトハウスで史上例を見ない米5軍による観閲儀仗も行われた)ちなみにアメリカ大統領がこの歓迎の仕方をするのは、天皇陛下とローマ法王と英国君主のみだそうです。
アメリカ大統領に最敬礼させられるのは世界でこの3人の方のみとのことです

天皇
 日本の元首は誰かと聞かれて答えられない人は多いと思います。元首とは国の首長であり、国際法上、外部に対して一国を代表する資格をもつ国家の機関であります。君主国では君主、共和国では大統領になります。国際習慣では、大使などの着任にあたり、派遣国の信任状は駐在国の「元首」が受け取ることになっています。日本では総理大臣が受け取るわけではないのです。
天皇
各国は大使などの信任状を天皇に捧呈しており、日本の元首は天皇であることは国際常識になっております。
 太古の頃より天皇スメラミコトの最も大切な務めは祭祀を行うことです。ある古文献の研究者が次のように言っておられました。「万物を作られた大元の神様、天祖をお祀りされた祭の始まりが立春のお祭りであり、その時の神主がスメラミコトで、これが数千年来の今日の神主の発祥であり、ご皇室にご親祭のしきたり残っているのもこのためです。」
 元旦には最初の宮中行事である「四方拝」が行われます。伊勢神宮、神武天皇稜、四方の天神地祇、ゆかりの神社等を遥拝し、国家国民の安寧そして世界の平和をお祈りします。そして神嘗祭、新嘗祭など年に30回にも上る祭祀を行われます。その祀りは、決められた日時に、極寒の中でも、どんな体力状態の中でも決められた様式で行わねばならない非常に厳しいものだと聞いております。
 古文献によりますと、万世一系のスメラミコトは人類始まって以来人々の安寧を祈る最高権威であり続けておられます。全人類の「神主」とも言えるでしょう。神話に起源を持つ祭主が今も神に人々の安寧を祈っておられるわけです。これは、人類の奇跡であり宝であります。私利私欲の無い無私の存在であります。スメラミコトたる所以であります。どこの国にこのような王が存在するでしょうか。
 現在の教育の場においては日本では祈りについて触れることはありませんので、子ども達からすれば「な~んだ祈るだけか!」などと言ってしまいますが、世界中の人達にとっては祈りは非常に大切な欠かせないものであります。ご利益信仰ではないのです。  天皇は民を「大御宝(おおみたから)」と呼び、その幸福を祈り、私達はそれを「大御心(おおみこころ)」と呼びます。
 第84代順徳天皇は「禁秘抄」の冒頭に「およそ禁中の作法は、神事を先とし、他事を後にす」と記しておられます。祭祀が最優先、つまり神ごとが最も大切なことであり、常に神に民の安寧を祈ることが、過去から未来にわたり、永劫に続く天皇の神から与えられた使命であるわけです。
インターネット上に次のようなドイツの大学教授のコメントが載っていました。
  • ローマ大帝国も、ナポレオンの国でさえも、一度戦いに負ければ亡びている。私の国のカイゼル陛下にしても、また生前中は神の如く慕われていたヒットラーも、イタリアのムッソリーニも、戦いに負けたらすべてそのまま残ることはできない。殺されるか、外国に逃げて淋しく死んでいる。だから日本の天皇も外国に亡命すると思っていた。しかし、そんなことは聞かない。だからすでにこの世におられないと思っていた。ところが最近、日本から来た記録映画を見て驚いた。天皇が敗戦で大混乱の焼け跡を巡っておいでになる姿である。しかも、二年もの長い間、北の端から、南の端まで、焼き払われた廃墟を巡って、国民を慰めておられる。陸軍も海軍もすでに解体されているのに、一兵の守りもないのに、無防備のままで巡っておられる。平穏無事なときでも、一国の主権者が、自分の国を廻られるその時には、厳重な守りがなされている。それでも暗殺される王様や大統領がある。それなのに一切の守りもなく、権力、兵力の守りもない天皇が日本の北から南まで、焼き払われた廃墟を巡る。国民を慰める。何という命知らずの大胆なやり方であろうか。いつどこで殺されるか。こう思って映画を見ていた。しかし驚いたことに、国民は日の丸の小旗を打ち振って天皇を慰めている。こんなに美しい国の元首と国民の心からの親しみ、心と心の結び、これはどこにも見られないことである。われわれは改めて、日本を見直し、日本人を尊敬しなければならないと思っている。

  • 天皇
     この方の「一切の守りもなく、権力、兵力の守りもない天皇が」という部分が実は歴史的に見ても日本の天皇の存在のあり方を言い当てていると思います。 日本の皇室はなぜ二千年以上も続いてきたのでしょうか。皇室が強い軍事力を持った結果二千年続いたのではないことは誰も承知のことであります。むしろ歴史上では基本的に天皇は軍を持たない存在でした。
     高松宮宣仁親王殿下が生前に同妃喜久子殿下に次のようにお話になったといいます。
    「皇族というのは国民に護ってもらっているんだから、過剰な警備なんかいらない。堀をめぐらして城壁を構えて、大々的に警護しなければならないような皇室なら、何百年も前に滅んでいるよ」(『文藝春秋』平成十年八月号)

     外国ではどこの国においても王や皇帝は城壁に張り巡らされた軍事要塞である城に住んでいた権力者でありました。
     平安時代から明治初期までの千年以上の間、機能してきた京都御所にはお堀がありません。それどころか、敵の侵入を防ぐための石垣や、敵を迎え撃つための櫓、そして見張りのための天守閣など、防衛の為の施設は何もありません。しかも、御所内に兵を駐屯させる施設ですら存在してませんでした。設計の段階から、敵が攻めてくることなど一切考慮されておらず、全くの丸腰だったのです。
    天皇
    まさか誰かが攻め込んでくるなど想像もされなかったのでしょう。民衆の蜂起に怯えるような事態も起きたことが無いのです。そして、京都御所の前身である平城京や藤原京、そしてそれ以前の都におかれた天皇の御所も全て同じであったという事は世界の歴史上類を見ないのであります。
    このように天皇はどの時代においても城壁の無い宮に住み続け、軍事的には丸裸で弱い天皇でありました。しかし、その「弱い」天皇が、例えば、屈強の中世の武士団も、ひとたび「錦の御旗(天皇が背後にいることを知らせる印。官軍である証。)が揚げられれば青ざめて退却したものです。
    いくら武力で圧倒していたとしても、天皇の威の前には、皆ひれ伏したものでありました。承久の乱においても北条氏の幕府方の勝利に終わりましたが、この時、「錦の御旗」が揚がったら十九万の幕府の大軍は、その場で降参するつもりでありました。鳥羽伏見の戦いで江戸幕府軍の敗北を決定的にしたのもこの「錦の御旗」であったことはよく知られています。
     今も昔も、権力者ではありませんが最高の権威を持っておられるのです。マツリゴトを行う権威のある存在と言えます。
     史学会では騎馬民族征服説が大手を振るっているうえに、戦前の教科書が勇ましい神武天皇の挿絵を掲げたものだから「征服劇」を誰もが信じたわけですが、「日本書紀」には武力で大和を圧倒したとは書かれておりません。もし、九州からヤマトに乗り込み武力制圧していたのならヤマトは敵の真只中であり、ここに「城」を築くはずです。ところが歴代天皇は、防衛本能が欠如したかのような宮に住み続けている。
    「征服王朝」などではなかったことははっきりとしています。
    その後も東京に遷都するまでは京都御所は毎年一定期間に、気楽に参詣できる庶民の信仰の場でもあり、御所の外と隔てているものは数人で壊せるような簡単な塀だけでした。  ザビエルは京都を訪れた時に、天皇を初めとする皇室の人達が大変貧しい生活をしていることに驚ろかされたそうです。しかし、諸侯にとっても庶民にとっても崇高な存在であり続けておりました。
     そのような状況で千年以上続いた王家など世界には存在しません。日本の天皇と世界の王は成立の背景、存在意義、権力構造、民との関係など、どれを取っても根本的に異なるのです。天皇に関しては外国の歴史観は当てはまらないのです。
     現在考古学においても、奈良の纒向(まきむく)遺跡の発掘調査によって武力による独裁者の建国でなかったことは証明されております。例えば私が子どもの頃は、前方後円墳は天皇の権力の象徴であるように学校では習ったのですが、前方後円墳の意味はまったくその逆であることが判明しております。
    前方後円墳は、西日本のいくつかの埋葬文化を習合させることによって組み立てられた、協力あるいは妥協の産物であったと今では見られています。
    まず、特殊器台と壷による首長霊祭祀という埋蔵文化の心臓部は、吉備(岡山県)からもたらされています。「方」の部分は、山陰地方から北陸にかけて広がっていた四隅突出型墳丘墓の四隅の出っ張りが、堀はヤマトの方形周溝墓の「溝」が、豪奢な副葬品は北部北九州の埋葬文化が、という風に各地方の文化が取り込まれています。また、東海・山陰・北陸・瀬戸内・河内・近江・南関東など各地の土器も多く集まってきております。
    纏向遺跡
     祭祀などの関係から特に出雲と吉備が最も大きく影響を及ぼしているのではないかと考えられるようになりました。  神話にありますように、出雲神や饒速日命がまずヤマトにやってきて、最後に九州から神武天皇がやってきたという「順番」は、ほぼ纒向に土器が集まってくる過程と重なってきます。
    現代の史学において、≪神武天皇は存在しなかった。ヤマト朝廷は巨大古墳を作るなど絶対的権力を持って搾取していた。出雲は実在しておらず、神話は作り事の話である≫などの欺瞞が明らかになりつつあると言えます。日本の神話は切り捨て、中国の文献のみを重要視してきた戦後の史学界・教育界・マスコミのあり方に異を唱えていかなくてはなりません。なぜかマスコミはだんまりを決め込んでいますがこの纒向の発掘は歴史を塗り替える大発見であるわけです。
     歴史の授業においては、律令制度により、天皇中心の国家を作ったと教えられましたが、実際は中国の皇帝に独裁権力を持たせた中央集権国家の法制度とは、呼び名は同じでもまったく非なるものと言えます。
     日本の律令では政務は合議機関である太政官(今で言えば内閣のようなもの) にゆだねられていました。建前上は天皇の許しがないと何事も始まらないことになっていましたが、実態は「天皇の認めた証」である「御璽(儀礼的であっても、現在でもこの天皇御璽と書かれた実印と「明仁」という署名が無ければ日本国家は動きません。総理大臣の任命者もいないということになってしまいます。)」を、国家最高議決機関である太政官が管理していて天皇は太政官の奏上した案件を追認するだけでした。権力者ではなかったわけです。
     近代史において、明治維新が起こった際に国民の団結を目的として天皇は国家元帥になりますが、神武天皇以来続く皇紀の中で直接政治に関わった時代は非常に稀です。また明治時代から戦後アメリカに占領されるまでも、「君臨すれど統治せず」が基本原則であり、内閣と天皇の関係も、また天皇の実権も憲法できちんと制約されていました。
    明治憲法
     私達の子どもの頃より戦後教育の中で、大日本帝国憲法のもとでは天皇は絶対的権力者だったようにすり込まれてきましたがそのようなことはありません。天皇であっても憲法に従わなくてはいけませんでした。天皇陛下は議会や内閣から上がってきた法案等に追認するのが仕事でありました。律令時代と変わらないわけです。追認するときは国務大臣の補佐なくては駄目でしたし、その追認した事柄については補佐した大臣が責任持ちなさいと書かれています(同憲法55条)。
    天皇はその時に文句は言えるが、それによって法律を曲げることはできませんでした(同憲法9条)。 天皇は緊急時には法律に変わる勅命をだせるが、その勅命は次の議会にかけないかぎり、効力を失うことにもなっていました。(同憲法8条)つまり天皇は責任が無い代わりに好きなように国を動かせないし、国を動かすのは内閣であり、議会だというわけです。それが立憲君主制なのです。
    太平洋戦争(大東亜戦争) の際も、内閣から正式に上がってきたものを追認されたということです。戦争責任が天皇にあるなどと一部左翼グループが言っておりますが、その人達の考えでいくと、現在内閣や総理の失策はすべて天皇の責任となり、とんでもない責任転嫁になってしまいます。
     徳川家等武士は天皇から実権を奪い、独裁政治を行ったかのように歴史教科書は書きますが、そもそも天皇は独裁者として日本国民の上に君臨した事は今だかつて一度もありません。
     天皇は国民と対立関係に無かったのです。だから京都御所のような簡単に打ち破られるような堀のない邸宅に1400年も住んでいて、一度も国民に襲われたり滅ぼされたりしていないのです。
     悠久の古代からスメラミコトは、ただ日本国民の為に祭事を行い、国民の平和や幸せの為に日々休み無く祈ってくださっている方なのです。このことを、教科書ではどこにも書かれてないことが日本の教育の大きな問題点だと思います。
     西洋の視点から教育や学問がなされているので、庶民の対極にいるのが天皇のような書き方をする人や実際にそのようなイメージを持っている人達を多く見ます。
     江戸時代は江戸時代「将軍」がいた時代ですが、天皇の存在は無きに等しかった、庶民とは遊離した存在であった等の根拠のないイメージだけの論調が多くを占めておりますので、庶民は「天皇」をどれほど意識していたのか。ブログ「かつて日本は美しかった」より抜粋して紹介します。
    《天皇は京都御所にいらっしゃいましたが、臨時、恒例の儀式や行事の際、庶民でも禁裏御所の中に入ることができました。恒例では「節分」、一月の「後七日御修法」「左義長」、7月の「禁中御燈籠」、12月の「御神楽」があります。臨時では「即位礼」「御能」、亡くなった人の法要にあたる「御懺法講(おせんぽうこう)」「御八講」などがあります。「即位礼」のときに庶民が御所に入れたとは驚きで、かなりの人が詰めかけたと記録に残されています。「節分」では「来る正月内侍所え参詣人の儀、元日昼八つ時より七つ時までのうち参詣いたし候ように申し聞くべき事」というお触れが出されており、禁裏御所内が時間を限って開放され、かなり混雑するほどの参詣人だったようです。このほか、牡丹拝見や御能拝見でも庶民は御所の中に入ることができ、地方から上京してきた人々も地下官人そのほかの手ずるを使って御所を拝見することが可能でした。御所は民衆に閉ざされた空間ではなかったわけです。
     職人は「受領名」というのを持つことができました。例えば神社の銅製の燈籠の後ろ側には「従五位下越後守藤原為次」というように国名に「守(かみ)」「介(すけ)」などが刻まれているのがそうです。刀鍛冶で「和泉守兼定」が有名でしょう。
    筆師や絵師、小細工、などなどいろいろな職人が受領名を持っており、明和5年(1768年)には1088名の職人が受領名を持っていました。これは朝廷に申請し、関白が内覧して、天皇の裁可を得ます。ただ正規な手続きを経ないで受領名を名乗る職人が多かったようです。
     暦の作成は古来より天皇・朝廷が行うべき国家事業で唐の宣明歴がずっと使われ続けましたが、天文学者の渋川春海が授時暦を研究し朝廷がこれを採用し、貞享元年(1684年)に改暦を宣下しています。この後、暦作成の実権は幕府に移りますが、形式的手続きは朝廷に残されています。農村では伊勢の御師が配った「伊勢暦」が使われており、それには当然元号が書かれています。改元のときは「年号改元之儀京都より仰進められ、文化予(と)御治定遊ばされ候。右之趣公儀より仰出られ候間」というふうにお触れが出されました。京都の朝廷と江戸の幕府ははっきり区別されていました。
     天皇・上皇や将軍・大御所が死去すると「鳴物停止令」「普請停止令」というのが出され、歌舞伎音曲や建築土木の大音響が一定期間(7-50日地域差あり)止められました。お触れはただちに全国津々浦々に届いています。もちろん琉球にも届いており、天皇崩御の際は日本全国で喪に服しました。》  外国人の観察でも天皇は庶民の尊敬を受けていたことがわかります。
     オランダ商館付きの医師エンゲルベルト・ケンペル(元禄3年 1690年来日)「日本誌」
    「天皇は現にその権限(教界に属する事項)を享有し、神々の正統な後継者として認められ、現つ神(あきつかみ)として国民から尊敬されているのである」
    天皇
     明治維新は天皇の存在が無ければなしうることが出来ず、日本は内乱状態になっていたことは明らかです。政府が倒れて権力が宙に浮いた状態でも、一時的に天皇が権力を預かり、新政府発足後、権力を戻すことにより、円滑に次の体制に入ることが出来るわけです。
     万世一系のスメラミコトであるからこそそれが出来るのです。中国では「易姓革命」といって絶対的な王の政権が常に新しい勢力にとって換わっておりましたが、そのたびにものすごい数の血が流されております。日本が何もかも中国のまねをしたように歴史の授業では教えていますが、制度的にも根本的には中国とはまったく違ったものなのです。
     江戸時代、天明の大飢饉により各地で一揆・打ちこわしが行なわれる中、京都の御所では毎日数万人の人々が、御所の周りに集まり祈ったという記録が残っています。
    いつの時代においても天皇は最高の権威であり、権力者がいても常に民衆とともにおられるのです。そういう、世界も認めた、ただお一人の御存在であります。
    皇室は国民とともにあり、国民によって守られてきたのであれば、国民もまた皇室によって守られてきたと信じております。天皇がおられなければ日本も滅ぶでしょう。
    天皇と国民は、支えあいながら長い歴史を共に歩んできたのでありますが、民衆の天皇に対する思いは現代が最も希薄であるかもしれません。神代からの仕組みを破壊しようとする動きがあるからです。あちこちで天皇をないがしろにするような見解が多く見られます。
      情報過多の中で、私達は「扇の要」をしっかりとつかんで真実を伝えていき、スメラミコト天皇をお守りしていかねばならないと思います。
    【参考文献】「古代史」 関裕二著 PHP研究所

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