実語教

実語教

 先祖祭りの話し合いが公民館であるの で、いつもは車で通るところを歩いて行ってみました。
数百年以上も前からそこで稲を実らせてきたであろう田んぼの、稲の葉先のあちこちについている水滴が、赤とん ぼ舞うなか太陽の光にキラキラと美しく光り、思わず深 呼吸をしてしまいました。絶え間ない虫の音を聞きながら、また、百年以上前からそこにある土塀の跡を見ながら歩いていると、次第に、この地で野に遊び田を耕したであろう先祖に想いを馳せました。
祖先の美名を語り、 祖先の遺風を継ぎ、祖先の祭祀を継ぎ、身を収め、故郷を愛し国を愛することが日本の道徳であったはずです。 今となっては数代まえの先祖の事柄さえ分からない家が増え、ひいては日本の歴史まで改ざんされ、日本人の先 祖達は学ぶべき存在でないかのごとき風潮が蔓延しつつあります。
戦後の学者達によって捏造改竄された、日本人としての誇りを持てない歴史を信じていく世代が大半を占めるようになってきつつあります。 子ども達に聞いても先祖を語れる子はおりません。先 祖を語る親もおりません。このことに危機感を感じている人は僅かのように感じます。
先祖がどれだけ崇高であったかを伝える親はほとんどいない様な気がします。その遺徳を知り、土地を守り、戦い、郷土を愛した先祖達を想うとき、魂の奥に眠る日本人としての誇りに目覚めるのではないでしょうか。
外国の子ども達を見てきた人達は、口をそろえて何か日本の子ども達に輝きがない、どこかつまらなさそうな顔をしているといいます。
インドに行った時のことですが、広場に設置された黒板のまえに子ども達が集まり、炎天下のもとに数学の授業が行われていました。木の枝で地面に計算をしていました。大変印象的だったのが、どの子の目も本当に輝いていたことでした。
何処の国に行っても子ども独特の目の輝きがあります。
現在「寺子屋」を経営している山口秀範さんが雑誌の中で次のように語っています。
「子ども達を巡る日本の教育環境は惨憺たるものです。江戸時代、 読み書きそろばんを教えながら、同時に礼儀や躾、公を重んじる心などを子ども達に植え付けていた寺子屋に倣い、英雄偉人の生き方を通して、正直さ、勤勉さ、勇 気、責任感、そして日本人の誇りを養うべく設立しました。日本の子どもの顔がおかしいと気付いたとき、皆が飽食のせいだと言いました。しかし、アメリカで見たユ ダヤ人富裕層の子どもたちはみんな目がきらきらしていました。―――彼らはアメリカ人としてと同時に、ユダ ヤ民族のアイデンティティーを守るために必死の努力を しています。子ども達は礼拝所で『旧約聖書』を通してヘブライ語を学び、15歳になったら親戚縁者を集めた 卒業試験兼成人式があり、何章の何処そこを暗誦せよと言われ、それを合格すると一人前のユダヤ人として認められるんです。」
戦後日本の伝統教育が断ち切られた結果、日本人としてのアイデンティティーのない国籍不明 の日本人が増えてしまいました。
福沢諭吉が『実語教に、「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なりとあり。」されば賢人と愚人との別は、学ぶと学ばざるとに由て出来るものなり。』と述べています。
「実語教」は「童子教」と ともに江戸時代数万あった寺子屋で最も使われていた教材です。なんと平安時代に作られ(弘法太子作とも言われている)鎌倉時代にはすでに全国に普及しておりました。
千年以上にわたり教育の支えとなってきたものですので全文を紹介したいと思います。

山高故不貴 以有樹為貴
山高きが故に貴からず。木有るを以て貴しとす。

人肥故不貴 以有智為貴
人肥えたるが故に貴からず。智有るを以て貴しとす。

富是一生財 身滅即共滅
富は是一生の財。身滅すれば即ち共に滅す。

智是万代財 命終即随行
智は是万代の財。命終われば即ち随って行く。

玉不磨無光 無光為石瓦
玉磨かざれば光無し。光無きを石瓦とす。

人不学無智 無智為愚人
人学ばざれば智無し。智無きを愚人とす。

倉内財有朽 身内財無朽
倉の内の財は朽つること有り。身の内の財は朽ちること無し。

雖積千両金 不如一日学
千両の金を積むと雖も。一日の学に如かず。

兄弟常不合 慈悲為兄弟
兄弟常に会わず。慈悲を兄弟とす。

財物永不存 才智為財物
財物永く存せず。才智を財物とす。

四大日々衰 心神夜々暗
四大日々衰え、心神夜々に暗し。

幼時不勤学 老後雖恨悔
幼きときに勤め学ばざれば、老いて後恨み悔ゆと雖も。

尚無有取益 故讀書勿倦
なお取益有るを無し。かかるが故に書を読んで倦むをなかれ。

学文勿怠時 除眠通夜涌
学文怠る時なかれ。眠りを除きて通夜に涌せよ。

忍飢終日習 雖會師不学
飢えを忍びて終日習え。師に會すと雖も学せざれば

徒如向市人 雖習讀不復
徒に市人に向かうが如し。習い読むと雖も復せざれば

只如計隣財 君子愛智者
只隣の財を数えるが如し。君子は智者を愛す。

小人愛福人 雖入富貴家
小人は福人を愛す。富貴の家に入ると雖も。

為無財人者 猶如霜下花
財無き人の為は、なお霜の下の花の如し。

雖出貧賤門 為有智人者
貧賤の門を出ずると雖も、智有る人の為には、

宛如泥中蓮 父母如天地
あたかも泥中の蓮の如し。父母は天地の如し。

師君如日月 親族譬如葦
師君は日月の如し。親族譬ば葦の如し。

夫妻猶如瓦 父母孝朝夕
夫妻は猶瓦の如く。父母には朝夕に孝せよ。

師君仕昼夜 交友勿諍事
師君には昼夜に仕えよ。友に交わって諍う事なかれ。

己兄尽禮敬 己弟致愛戯
己より兄には礼敬を尽くせ。己より弟には愛戯を致せ。

人而無智者 不異称木石
人として智無きは、木石に異ならず。

人而無孝者 不異称畜生
人として孝無きは、畜生に異ならず。

不交三学友 何遊七学林
三学の友に交わらずんば、何ぞ七学の林に遊ばん。

不乗四等船 誰渡八苦海
四等の船に乗らずんば、誰か八苦の海を渡さん。

八正道雖廣 十悪人不往
八正の道は廣しと雖も、十悪の人は往かず。

無為都雖楽 報逸輩不遊
無為の都に楽しむと雖も、報逸の輩は遊ばず。

敬老如父母 愛幼如子弟
老いたるを敬うは父母の如し、幼きを愛するは子弟の如し。

我敬他人者 他人亦敬我
我他人を敬へば、他人亦我を敬う。

己敬人親者 人亦敬己親
己人の親を敬えば、人亦己が親を敬う。

欲達己身者 先令達他人
己が身をば達っせんと欲せば、先ず他人の身を達っせしめよ。

見他人之愁 即自共可患
他人の愁いを見ては、即ち自ら共に患うべし。

聞他人之嘉 即自共可悦
他人のよろこびを聞いては、即ち自ら共に悦ぶべし。

見善者速行 見悪者忽避
善を見ては速やかに行け、悪を見ては忽ち避れ。

好悪者招禍 譬如響応音
悪を好む者は禍を招く。譬ば響きの音に応ずるが如し。

修善者蒙福 宛如随身影
善を修する者は福を蒙る。あたかも身に影の随うが如し。

雖富勿忘貧 或始富終貧
富むと雖も貧しきを忘るることなかれ。或いは始めに富み終わ りに貧しいとも。

雖貴勿忘賎 或先貴後賎
貴しと雖も賎しきを忘るることなかれ。或いは先に貴く終わり に賎しくとも。

夫難習易忘 音聲之浮才
それ習い難く忘れ易しは、音声の浮才。

又易学難忘 書筆之博藝
また学び易く忘れ難しは、書筆の博藝。

但有食有法 又有身有命
但し食有れば法有り、また身あれば命有り。

猶不忘農業 必莫廢学文
なお農業を忘れざれば、必ず学文廃することなかれ。

故末代学者 先可按此書
故に末代の学者、先ず此の書を按ずべし。

是学文之始 身終勿忘失
是学文の始まり、身終つるまで忘失することなかれ。

実語教
 二宮尊徳も吉田松陰も東郷平八郎も幼少期に「実語教」の影響を受けたそうです。
古からずっと受け継がれ、日本人の心を形成してきた多くのものが、特に戦後において否定されてしまって、根無しの浮き草になってしまい、まるで魂が放浪するかのごとき民族になってしまいつつあります。
ギリシャ神話に出てくる伝説の都市トロイアが実在することを発掘によって証明したシュリーマンのことは日本でもよく知られていますが、現代の日本では神話は作り事として価値のないものとされ、 中国の書物は正しく、日本の歴史書は信頼できないという情けないスタンスで、学問がなされています。
そのおかしさを払拭すべく、正しい歴史について今後も述べていきたいと思います、

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